昭和43年12月27日 朝の御理解
御理解 第14節
「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」
神様がお嫌いになるような事はなしてはいけん。神様に嫌われるでなしに、神様に愛される。神様に好かれるんでなければならぬ。どんなせまい所でも綺麗に整地をされる。そしてそこにお野菜のひとつでもつくられる、また花のひとつも蒔かれるそこが生かされる。そういう心掛けが必要だと思う。荒れておれば荒れ放題、これでは勿体ない話である。そこから綺麗な野菜やら、きれいな花やら手を入れれば出来るものを、何にも出来んのですから、勿体ない話であると同時に、神様もそれを嫌いなさる。
ですからそういうお粗末ご無礼の内容に心掛けねばなりません。「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる」と簡単に教えて下さいますけれども。これを私共の心の上に頂くと、非常に範囲の広いものになってくるですね。どんなに喜びの種子を蒔いても、心がすさんでおっては、その種子が芽を吹きません。それでは勿体ない話です。心が固いまるきりコンクリートを打ったように固い。これを打ち耕すのは骨が折れる。
コンクリの上に水を撒いても種を蒔いても、その水を吸い取る事もしなければ、又は種子が芽をきる事もない。コンクリートのように固い自分の心と言うものを、本気でひとつ打ち耕さなければならない。心が荒れる心がすさんでおる。これでは良いものがそこから生れてくるはずもない。同時にそこから神様がお嫌いなさると言う事。神様から嫌われては、私共がどんなに幸せを願うても、言うても幸せが育つはずがない。頂ける筈がない。ところが私共の心は、時々やはり意固地なとでも申しましょうか心が固い。
意固地になったり、どうしても心が溶けない。和らぐ反対の心又は心の中を冷たい寒い風が吹きすさぶように心が寒々しゅう、心に暖かいと言うものがない。心がすさんでおる。心が固いとか心が意固地だと言う、ここのところを信心させて頂く者は特に心掛けねばいけませんですねえ。この事は許されるけれども。この事は許されない、と言うような心は意固地なんです。そんな事があってよいはずがない。昨日は久し振りに、ここへ参ってきた人がある。
その方の叔父さんが、ここへ熱心に参って来られる。ところが甥姪に当たるのですけれども。どうした事か互い違いになって、最近は行ったり来たりしてない。それでもやっぱりお導きを頂いて、何かと言うと、すぐ合楽の金光様を思い出すのだけれども。又あの叔父と会わんならんと思うたら、足が向かんとこう言うのである。それでも今日はどうでんお願いせんならんもんが出来たから、お参りして来たとこう言う。先生どういうもんでしょうか。朝参りでもしたいと思うけれども。
参って来りゃ叔父と顔を会わせんならん。そうしたらお参りしたら心を汚して帰らんならん。先日も御大祭の時に、お参りして来た。丁度叔父が脇殿の所に立っておる。自分は参道の所をやってくる。そしたら自分の顔を見たらツーッと裏の方へ行ってしまった。叔父さんがあそこへおるから今日は、ひとつものでも言おうかと思うておったら、向うの方へ行ってしまった。さあそれからと言うものは、有難いはずの御大祭が有難くなくなってきた。それけんで参りたいと思うばってん参りとうなか。
だからそれは叔父さんのそうであっても、あんたの方は逃げられたら逃げられたでいいじゃないか。会うたらこちらの方で、もののひとつも言おうと言う和らいだ心で、参って来ないけません。でなかったら参られんでしょうがと言うた事ですが。これなんかは意固地やはり心が固い。あれからあんな事を言われた。これだけは許されないと言う、心が固い。こういうところをです。心が固くなっておるところを、それはほんのわずかな、もうその人に対するだけである。
その場合だけですから、けれどもそれは先程から申しますように、ほんの僅かばかりの荒れ地荒れ屋敷があったんでも、神様に対してお粗末になるご無礼になる。しかもそれを神様はお嫌いなさると言うのですから。たったその三角屋敷のような、普通なら役に立たんような所にでも、そこをきれいにさせて頂いたり、まあ何も作られんなら、花のひとつも植えさせて頂くとか。何かそこを利用する方法を考えねばです。神様に対して御無礼になり、自分も損だ。
しかも神様はそれをお嫌いなさると仰るのだから。どんな狭い所でもお粗末ご無礼があっちゃならん。その辺のところが信心させて頂く者は、豊かに大きゅうならにゃいけんのです。私は今日この十四節、「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる」と言う所を頂いて、実際荒れ地荒れ屋敷の上にも考えさせて頂いたが、心の上にも心が荒れてはならん。心が荒れ地荒れ屋敷を作っちゃならん。ところが今の様に私共は、あんなにやさしい人が、あんなに心の和らいだ持主の人が、そこんとこだけには固い。
その叔父さんと言うのは、本当にやさしい人なんです信心も出来る。そんなら子供のような相手姪ですからその姪にだけはです。向うから来よったらクルッと背を向けると言う頑なな心と言うか、意固地な心と言うかそれがあったんではいけないでしょう。ここきを本当に、私は神ながらな行き方と言うのを体得しなければいけないと思う。昨日福岡の高橋さんがお参りして来て、先生人間心とそうでない、いわゆる神ながらな行き方が、その見極めがつかないと言うのです。
自分は、これは神ながらと思うておったのが後で考えて、あれが人間心であった。その人間心がかえって、結果がよくなかったと言う事になってくるとです。何処までが人間心で、何処までが神ながらか分からない。本当言うたら、人間心ほどつまらないものはない。人間心を使う程、つまらん事はないがです。それを神ながらと言う頂き方をして、その神ながらの中には実意もなからねば親切もない。言うならば横着な考え方。そういう神ながらでおかげの頂けるはずがない。
何処までが神ながらで、何処までが人間心か。なかなかこれは説明がしにくい。神ながらそのものがです。神ながらなら、おかげの頂ける道なんです。ところが私共は、神ながらと思うておる事が、いわゆる実意を欠いでおる事で、親切心がない事であったりするような場合があるのですから。そこで例えば、その甥、姪の仲違いから、しかも両方共ここで信心させて頂きよる者が、姪の方が叔父の顔を見るのも嫌だからと言うて、お参りをせんごとなってきた。
実はこういう例は沢山あるのです。お参りしたいけれども、あれと会わんならんと言う例は。それがお互いの頑な心からそう言う事になるのです。これでは神様がお嫌いなさるはずだと思うのです。そこでその神ながらと、今申します人間心と。だからこれはいつか頂いた御理解に神ながらの前に、人ながらと言うのが必要。人ながらと言うのは、人間として持てる真心と言うか、それを尽くすと言う事。そこに実意を欠がないと言う事。その人ながらの先に神ながらと言うのがあると思うのです。
そこでその甥御さんと姪御さんの事ですけれども。その姪御さんが言うのが本当であるとするならばです。その叔父さんはです。神ながらと言うのを間違えとる。神ながらなと言う事を間違えとる。神ながらな行き方をしとらん。向うから姪がやって来ておる。顔見りゃものも言おうごとなか。それで自分なクリッとうしろ向いて裏の方へ行った。その為じゃなかったかもしれんけれども。
姪は少なくとも、そういう風に考えた。お参りして来たら、もう不愉快な思いをせなならん。そこで仲が悪かっても、こちらから来る者が相対するのであるから、これは、神様が神ながらに仲直りの道をつけて下さるんだなあと言う風に、頂く事が神ながらなんです。やあ、参ったねえ、と例えばひと言、叔父さんが姪に言うてごらん。向うも何かもの言いたいと思いよる。
それをクリッと、ひっくり返ったから、いわゆる不愉快、有難いはずの御大祭が有難くなかったと言うのである。それはやはり、向うが不愉快なら、こっちも不愉快かもしれんけれども。それが神ながらなんです。それが神ながらに、ここで出会わせて頂くのを、不自然に、ここでクリッとうしろを向いたから、これはもう神ながらじゃない。神ながらとは、そういうような事。ひとことふたことじゃないでしょうけれども。私も昨日、高橋さんに質問されて、これが神ながらこれが人ながらと。
これが人間心と、説明が出来ない程に、けじめがつかない程に難しいけれど。私がそのつどつどに、教えてあげようと言って申しましたがです。結局人ながら、それは嫌でも努めなければならない。その人ながらの向うに神ながらがある、という訳なんです。この神ながらと言うのは、いつも神様の心と言うものを、推し量らしてもろうて、神様ならば、どう思し召すだろうかと言う様な、心になる事が神ながらなんだ。神の心。神ながらな人と言うのは、いつも神心の強い人だと思う。
本当の神ながらの出来る人は。これも昨日、熊谷さんがお届けなさるのです。波多野さんと一緒にバスに乗ってやって来ておった。神様の有難い事を一生懸命お話しておったら、途中から返事がなくなった。それでようく見たら、寝ちゃったと言うのである。この人ばっかりはどうしたこつじゃろうかと、今迄はそこ迄しか思いきらじゃった。ところがもし神様が波多野さんの眠りこけておる姿を見らっしゃったら、はあよう眠っとると思いなさるじゃろうと、こう言うのである。
これは話したり、揺さ振ったりして起す段じゃあない。よう眠っておると、眠っておるその姿を、返って言うなら、その本当の親心でご覧になっておるであろうけれども。これが人間心を使うと、自分がこげな有難い話ばしよるのに、返事もせんと思いよったら、もう眠ってござると、言うてから。言うなら、そのムカッとするところをです。こちらの心が神様に向うておる時であるから、そういう風に思えたと言うのである。固くない心とは、そういう心。神様の心になって見る。
そこから神ながらな行き方と言うのがあるのです。その神ながらな行き方こそが、言うなら自分の心をいつも和らいでおる。いわゆる神様に好かれる心。神様に愛される心。その反対の心は意固地な心。いわゆる我の強い。これは自分な間違うとると思うとるけれども、それを押し通していこうとする頑なな心と言うものがです。いかにそれがその人の場合だけであっても、神様はそれは許されない。いわゆるお嫌いなさる。そういう心と取り組んで、それを耕していくと言う事がです。
そこに種子を蒔かして頂くと言う事がです。そこを活用する利用すると言う事が神様のお喜びだと思うのです。この御理解十四節をそういう風に頂かしてもろうてから、こういう心になる為にはどう言う様にと思うて、御神訓を開かせて頂きましたら。道教乃大綱のところに「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり」。例えばどのような場合にもどのような中にも、これ程のおかげを頂いとる、また神様のお徳の中に生かされておると言う。
喜びが分かったらです。その固い心と言うか、心が荒れておっても、すさんでおっても、わが身は神徳の中に生かされてあり。このようなおかげの中にあると言う事を実感し、分からして頂いたら、そういう心は、和らかになってしまうと言う事である。このようなおかげを受けておるのに、何と言う偏見な考え方であろうか。何と言う狭い、又は意固地な考え方であろうかと言う事になる。
わが身は神徳の中に生かされてありと言う事が分かる。そこから心が和らいでくる。これは私の父の姉に当る人が昔言うておった事を、ふっと思い出させて頂いたんですけれども。もう私が子供の頃の事だったのですが、この人達夫婦は飯塚の方で久留米絣を商売しておりました。その叔母が言うておった事ですけれども。家庭の中でいざこざがある。けれども夫婦がそれぞれに反物を背中に担いで表に出るとね。もう二人見るごと、自分な変れれると言うております。
もうそうしてから、鼻歌のひとつも歌おうごとなってくる。もうやっぱり私は商売が好きだからと言う訳なんです。こげな心で商いをしたっちゃ、よい商いが出来るはずはないと知っとる訳なんです。ですから反物を担いで表へ出たが最後ですね。もう自分でも条件にゃ及ばんごと、心がカラッと変ってしまう。だから何かごたごたがある時には、商売に出るが一番よか。もうどんなに自分の心が荒れておっても惨んでおっても、ちゃあんと心が整理できスキッとして商売が出来る。
だから良い商売が出来ると言う意味の事を、言うておったのを今朝から思い出させて頂いた。これなんですよ。自分達が本当におかげ頂きたいならです。私共が一歩心を神様へ向けたらです。この荒れ地荒れ屋敷も、心が惨んでおっても、これが神様へ向けられたら、にこやかに出来ておる、和らいでおれれると言う位に、神様が好きにならなきゃいかんです。例えば私共の叔母がです。お客さんの方へ反物を担いで一歩外へ出たらです。どんなに心に苦しい悲しいとか、腹の立つとか言う様な事があっても。
それこそ鼻歌が出てくる位に、心が愉快になってくると言うのである。皆さんが心がどんなに乱れておっても、合楽へ足を向けたら神様へ心を向けたら、どうしてこんな心が起きてくるのだろうか。このようなおかげの中にありながら、御神徳の中に生かされてある事を、ふっと気付かして頂いただけでです。不安も心配も腹立ちも、悲しみも消えてなくなる位な、おかげを頂きたいと私は思うです。荒れ地荒れ屋敷が自分の心のすみにでもあればです。それが神様がお嫌いなさると仰るのだから。
そこから嫌われたんじゃ、おかげにならんのです。神は荒れ地荒れ屋敷を嫌いなさる。これは実際のお土地の事もそうですが。これが自分の心の上に頂きます時にです。心の中にお互い荒れ地荒れ屋敷が有難いと言いよる心の片隅にありはしないか。そこはまるきりコンクリートのように固くはなっておらんか。そこだけは水をまいても、水も吸い取らん。種子を蒔いても芽をきるはずもない、と言った様な心を、自分の心の隅々からです。発見し、そこを打ち耕さして頂いて、そこに喜びの種子を蒔かしてもらう。喜びの花がそこから咲いて、生き生きとして来る様な、おかげを頂きたいですね。
どうぞ。